時は今より四十数余年前。
長野県須坂市はこれまでの製糸業の町から精密機械の町へと変換の時期を迎えていた。その中でも富士通須坂工場では数千人もの従業員が働き、朝の出勤、昼の昼食、夕方の帰宅時には蜂の巣を叩いたのごとくに人が出入りしていたのであった。
富士通須坂工場の目の前にあった「富士食堂」。
若き板前兄弟が切り盛りするこの店にも昼夕時には溢れんばかりの人々が来店いた。
この兄弟見かけは若いが、高校時代から須坂市の隣、長野市権堂町の名門「料亭松竹」にて十数年間四季の料理と和食の基本を習った後、あちこちの旅館やホテルの板前として修行を積んできた という経歴をもつ根っからの板前兄弟。この兄弟はお互い妻子があったが、二家族狭い店内にて住み込みで働き、いつか大きくなることを夢を
見つつ、毎日「ふじ食堂」で我武者羅に働いていたのだった。
時は経ち、富士通須坂工場に社員食堂ができると、工場では昼食時の社外への外出を禁止したためにその波紋は自然と富士食堂への来店客数にも響いた。来客数の低下から店を切り盛りしてきた兄弟は、兄がそのまま食堂を、弟は新天地を目指すこととなり市内の本上町に空き店舗を借り、店を開店することになった。
10畳あまりの狭い店舗ではあったが、頑張るしかない。
弟は腹をくくり無我夢中で仕事に励んだ。
新しい店では、以前にその土地に焼肉店があったこともあり、そこに今まで行っていた食堂を組み合わせ焼肉食堂を営んだ。以前の店の名が「みの里<みのり>」だったことから屋号を「みのり」とした。
そうです!この時独立を果たした弟こそ現マスターである「小林一則」なのです。
当初、認知度も少なかったせいかお客は入らない。そこでマスターは考えた。「何か他では真似のできない味を作らなければならない・・・」と
そこで研究と苦労の末に完成した料理が「ホルモン焼き」。
このホルモン焼きの味の良さのおかげか、徐々に来客数が増え、経営は安定した。そして「ホルモン焼き」はみのりの看板メニューとなる。
狭い借り店舗ではあったが、「一国一城の主」を夢に見て日々邁進したのであった。
「みのりといえばホルモン焼き」が定番になりかけた昭和55年。遂に念願だった自分の店を立町にオープンすることになる。それまで昼、夜していた営業時間も夜のみとした。
時は平成となり、地元有名雑誌への掲載を期に看板メニュー「ホルモン焼き」を屋号を付けた「みのり焼き」と変更した。そして更に地元の方々より愛される人気メニューとなった。
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